西部湯瓜のshow論文

考えたことのメモなど

『おおかみこどもの雨と雪』論

親子モノの映画だが、既存の作品(*1)に遠く及ばないし、独自の価値観や新鮮なメッセージが何も無い。残念な映画だった。

このエントリーでは特に、物語の終盤をピックアップして、具体的に何がどうダメだったか書こうと思う。ただの批判に終始せず、きちんと代案を提示するつもりだ。

一つ目は、物語のクライマックスのシーン。プロットはこんな感じ。
 
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息子オオカミを追いかけて山へ入る母親
→熊に遭遇
→熊は母親を襲わずに去り母親は助かる
→その後、母親は足を滑らせ転落
→息子オオカミは母を助け、すぐに山に帰ろうとする
→母「待って!行かないで!」
→それでも行こうとする息子の姿を見て母親納得
→母「頑張るんだよ」
→母親は息子オオカミを山に放す決心をする
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全然面白くない。母親が納得するに至る理由も謎。

代案はこうだ。
 
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息子オオカミを追いかけて山へ入る母親
→熊に遭遇
→身の危険を感じた母親はここで初めて気づく
→母(山奥に一人で入るなんて、どれほど自分は馬鹿だったのか。山を甘く見ていた。これが本当の自然界。人間の世界とはまるで違う。そうか、あの子はこんな恐ろしい世界で生きていくことを決めたのね。もう一緒にはいられない。この子は一人前の立派なオオカミだわ。山に放そう)
→息子を止めはせず、山に放す
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作者はこれを上手く映像で表現すべきだった。

2つ目は、終わり間際のエピローグとも言えるシーン。プロットはこんな感じ。

母親が家にいる。
→すぐ隣の山から息子オオカミの遠吠えが聴こえる
→母「あの子、元気そうだわ」笑顔が溢れる。

作者のケアレスミスだ。

これでは、息子オオカミはいつでも気軽に家に帰ることができてしまう。すぐ隣の山なんだから、気が向いたらたまに帰って来ていつでも母親と会えるわけで、じゃあ、まるで永遠の別れかのようなさっきのシーンは一体何だったのか。山奥で母親を助けるくらいには孝行息子なんだから、当然たまには実家に顔を出して、一緒にご飯でも食べているんだろう。興ざめもいいところだ。もちろん、作者は永遠の別れのつもりで描いたのだろうが、息子に人間性を残しているからロジックが破綻しているのだ。

代案はこうだ。
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息子オオカミは成長するに連れて、人間界の生活に適応できなくなる
→自分の母親が人間だという違和感も日に日に大きくなり、親子がすれ違い始める
→ついに、オオカミの方向へ「完全に」針がふれる
→山奥で母親が危ないシーンでも助けない
→最後のシーンで隣の山から遠吠えが聴こえる
→母「あの子、元気そうだわ」胸に手を当てて目を閉じる。
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母親の息子オオカミへの一方的な愛情が切ない。かといって、息子オオカミのことを誰が責められるだろうか。人間とオオカミのハーフとして一生懸命生きた、そして次はオオカミとして一生懸命に生きている。みたいな。

人間とオオカミの親子関係をきちんと描けば、別れのシーンも説得力を持って観る人の胸に届くのに。
 
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*1・・・親子モノなら『クレイマー、クレイマー』や『I am Sam アイ・アム・サム』など。